次の天下の話をすると猿が笑う
「ユキドケ。わしの次に天下を治めるのは誰と見る?」
からりと笑ったその顔は人懐っこい表情を浮かべていた。
笑いながら申されることではありません、と一言で制すると、きょとんとして首を傾げた。この方――ヒノコ様、現在においては“天下人”にあたる――はいつもこうなのだ。
分かっていて当たり前のことを、さも分かっていないかのように。あるいは、誰も思いつかないようなことをさも当たり前かのように。発言も、行動も、よくよく人の意表を突き、そうやって驚かせる。
しかし、それがゆえに“ヒノコ様ならば何かを成し遂げてくれる”という幻想を抱かせる。そうやって人はこの方についていく。お前もその一人かと訊かれれば、頷いてしまうのだろう。
一つ、嘆息。天下人が次の天下人を予想させるなど、私には解らない。
「ヒノコ様にはご子息もおられますのに、そのようなことを申されるのは如何なものかと」
「なに、不思議ではなかろ?」
諫言に近い言い回しで遮ろうとするも、今度は反対方向へ首を傾げる。
「この世はまだ、天下に己が道を敷きたいと思っている者共でひしめき合っておろうに」
口角を上げたヒノコ様の顔は普段の天真爛漫さに影が差しており、ぞっとした。
一瞬伏しがちになった目に光はなく、声色もドスが利いたかのように低い。が、すぐにころりと明るい調子で笑う。寒気を感じさせたヒノコ様はそこにはいなかった。
「な、ユキドケ。お前さんは天下を治めることには腐心せんであろ? ゆえに訊いておるのよ」
確かに私は、天下をこの手に、とは思わない。自分の一族、領民、それらが満足の行く生き方を出来るならば、それで十分だ。
だが、乱世という混迷の中にあって、“己の手でこの世を正す”と意気込む者は少なくない。時の権力者がその混迷に飲み込まれ、失墜していったこともそれに拍車をかけている。
権力者を擁し、その補佐という名目で世を牛耳る。古くからある支配の手段の一つだ。だが、このヒノコ様の天下においては、それは現状では不可能であろう。なにせ、ヒノコ様自身がまず歴戦の勇士であり、知恵者でもあるのだから、傀儡化することは難しい。ならば、順当に考えてヒノコ様が没した後のことを考えなければいけないのだ。この質問に関しては。
ヒノコ様の天下の形をそのまま崩さず保ち続けるか、あるいは新たに天下の形を作り直すか。前者にも、後者にも。心当たりはある。まず、前者は――
「――では。ヒノコ様の次に天下を治むるは、イトシエ殿と見受けます」
「なるほど。アレもなかなかにしっかりしておるからな。不肖の息子を任せるなら、あいつじゃの」
イトシエ殿はヒノコ様とは竹馬の友で、夫婦ぐるみでの付き合いもある。義理堅い性格の持ち主であるから、ヒノコ様亡き後も友垣の作り成した天下を支えようとするだろう。
「わしの天下が続き、そのままわしが隠り世へ行ったならば、その天下を支える大黒柱と成り得ような。……だが、それは“ヒノコの天下”の延長線上に過ぎん。もしその天下が崩れたとしたら――さて?」
「……まるで、今も虎視眈々と機を窺っている者が存在しているかのような口振りですね」
「実際、そうであろ」
……実際、そうなのだ。反応に困り、頭を振ることができなかった。
ヒノコ様の天下にありながら、ヒノコ様に迫り来るほどの勢力を持つ、人が。……いる。
言葉に詰まったこちらを見遣って、ヒノコ様は袖から扇を取り出した。日の丸が描かれた、白地の上で朱が鮮やかに映える扇。派手好きのヒノコ様にしてはらしくない。
扇を開きながら、言葉をこぼすようにヒノコ様が語り始める。
「オダカ様が成そうとした平らなる世が近付いていたその時に、オダカ様は炎に消えた」
ばら、ばらばら、ばらん。開ききった扇を眺め、瞼を緩く伏せる。その瞳に差す光は弱い。
「その世を実質的に継いだのはオダカ様のご子息ではなく、わしであろ? ならば、わしも」
扇に遣っていた視線を再び私に向けた時、ヒノコ様には“影が差して”いた。自分の命が危ぶまれるようなことではないのに、身体が硬直し、視線を外せない。
ばら、ばらばら、ばらん。扇が閉じられ、その先はヒノコ様の喉元に当てられる。
「オダカ様のように」
やんわりと口角を上げて、ヒノコ様は扇を水平に滑らせた。それの指す意味を解し、息を呑む。
「――こうなる、という可能性は。十分、十二分、あろうよ」
「…………かも、しれませんね」
言葉を失いそうになった中、いっぱいいっぱいになりながら返答した。その回答を聞いたヒノコ様はまたころりと表情を晴らせ、にんまりと笑う。
「そうじゃろ。さ、ユキドケ。どう見る? “ヒノコの天下”が崩れた先、次の天下は誰のものと?」
「…………。――アズマヤ殿、でしょう」
「なるほど。人望も厚く、温和に見えて老獪。その上耐えることを知っておるアズマヤなら、確かに次に天下を整えような」
ヒノコ様の天下において、独自の勢力を保ち続けているのがアズマヤ殿だ。譜代の家臣を多く抱え、その人望は厚く、人柄も温和であるがゆえ頼り甲斐がある。将としての……いや、人を治むる人物としての器は、ヒノコ様に負けずとも劣らない。今でこそヒノコ様に臣従の構えを見せているが、ヒノコ様がいなくなった時にはどうなるか。
また、天下は乱れるのだろうか。この平穏なひとときも、胡蝶の夢に過ぎないのか。先を思うと、憂いばかりが募る。平穏と、戦乱。折り重なっていく様が浮かばれて、また一つ、嘆息。
「そう暗い顔をするな、ユキドケ。その時を精一杯もがけば、なるようになる。――ところで、わしにはもう一人、天下を掠め取る力量の持ち主に心当たりがある。ユキドケ、分かるか?」
「……いいえ。イトシエ殿とアズマヤ殿を除けば、他の者にその力量があるとは思えません」
分からないと言った私の顔を見て、ヒノコ様はからりと笑った。普段通りの、人懐っこく天真爛漫なヒノコ様だ。
ヒノコ様は持て余していた扇で片方の手のひらを打ち据え、事も無げに名を告げた。
「カンロじゃよ」
「カンロ殿が、ですか?」
カンロ殿。ヒノコ様の右腕として、参謀を務める切れ者だ。確かにその智謀を以って天下を奪うことは、可能といえば可能なのかもしれない。しかし、
「カンロ殿は、さほど国力を持った御方ではございませんでしょう?」
カンロ殿は現在、このひのもとの中央から離れた僻地に少しばかりの領地を持つのみだ。そんな状態では、いくら天が与えた才知を持っても、それをこなすことは物理的に無理だ。
私の聞き返しにヒノコ様はまたからりと笑って、手持ちの扇でこちらを指した。
「読みが甘いぞ、ユキドケ。カンロに国力ある領域を与えてしまったなら、わしが生きている間にも天下を我が物にできようよ。だから辺境に左遷しておるに過ぎん。アレは確かに智謀に長けたわしの右腕よ。じゃが、それゆえにわしはアレの恐ろしさを知っておる」
ヒノコ様のもとにはかつて、ハルカという智将がいたと聞く。カンロ殿と並び称されるヒノコ様の二大参謀。ついぞ対面することは叶わなかったが、ヒノコ様から聞くハルカ殿の活躍は目覚しいものだった。しかしそのハルカ殿も、決してその活躍に見合う待遇ではなかった、と風の噂に聞いている。
心強い味方は、手強い敵になる。ヒノコ様は、そのことを踏まえて冷遇していた、のか。
「…………」
「なに、黙ることはないぞユキドケ。アレは“天下を取ることは出来る”が、“天下を取るつもりがない”からのう。少なくとも、わしの生きておるうちは」
「またそんな、縁起でもないことを」
諫めるような言い回しで言葉を遮ると、ヒノコ様はまたからりと笑った。その様子を見て、嘆息一つ。諌める言葉など、端から聞く気はないのだろう。
ため息が多いぞ、と指摘されたので、原因はほぼあなたです、と返した。